月別: 2023年2月
走り屋の坪ちゃん
2023.02.20
現在、日本の自動車業界は、コロナ禍の影響や半導体の供給不足によって、発注しても納車されないとか、受注停止とか、色々と混乱が生じています。当社でも発注して半年を過ぎてもなお納車の目途が立っていない状況です。どの自動車メーカーも同じ状況で、新車の納期が不確定な状況になっており、待ちきれないユーザーは、中古車市場に流れ込み、中古車価格にプレミアがついて大いに高騰しているとのことです。そんな状況下、ふと自分のマイカー歴を思い起こしました。運転免許は、もうかれこれ取得して50年ぐらいになります。その当時は、みんなが車に対して特別の思い入れがあり、免許を取って車を購入して、買い物やドライブに行くというライフスタイルであり、一種のささやかなステータスでもありました。もちろん、免許所有は、就職する際にも必須条件でした。そんな時代に記念すべき初めての車を所有したのは、大学に入学して1年後に免許証を取得した時でした。免許が取れたら父の愛車?をくれる約束だったのです。貧乏ながら父も大の車好きで、マツダキャロル、パブリカ、三菱コルトと乗り継いでいました。そしてその時点で父が乗っていたのは、ホンダのN360でありました。もう相当くたびれた車でしたが、自分で乗り回せる初めてのマイカーでありました。その時は、嬉しさの余り、夜な夜なあちこちにドライブに行っていました。その当時に一部開通していた中国道を目的もなく走っていました。現在の西宮北ぐらいまでは開通していたと記憶しています。その愛車は2年後に信号のない交差点での出会いがしらの衝突事故で廃車となりました。念のために書いておきますが、信号も標識もない交差点は、当時のルールで左方優先というものがあり、相手の車の左方になるのが私の車でした。幸い、相手もこちらも大したケガではありませんでした。その次に、どうしても車が欲しくてバイトに明け暮れて、ようやく手にしたのは、カローラクーペでした。シルバーのクーペは、馬力はともかく、カッコいい車でありました。当時は、学生寮に住んでいたため、幸運にも車庫には不自由せず、愛車の拠点となっていました。購入の時、車庫証明が要ったはずなのですが、この時は確か、車庫〇〇〇だったような気がします。おおらかな時代であったのです。そうこうしているうちに、近所の布団屋の友人の坪ちゃん(本名・坪井君)が乗っていたマツダのサバンナGTを譲ってくれるという話が突然舞い込んできたのです。坪ちゃんは、布団屋に住み込みの従業員で、稼いだお金は、ほぼ車につぎ込んでいました。ロータリーエンジンで、タイヤはオーバーサイズのファイヤーストーンを履いていて、色は深緑の、あの自衛隊色でありました。今度は、超パワーがあり、走り屋の装備をしたマシンでありました。そんな走り屋のマシンを、二つ返事で譲ってもらうことにしたのです。要は、カローラクーペを別の友人に売り、そのお金でサバンナGTをゲットしたのです。その坪ちゃんは、なんでそんな素晴らしい車を譲ってくれたかというと、彼は、プリンス・スカイラインのGTR、いわゆるハコスカのGTRを買ったのです。この坪ちゃん、超マニアの走り屋だったのです。今も語り継がれているハコスカGTR、のちの技術の日産を代表するドリームカーでありました。サバンナGTも、スーパーマシンでありました。エンジンはパワフルで、サスも固く、信号のダッシュ力は、目を見張るものがありました。そんな車でモータリゼーションを謳歌していたのですが、その後に忌まわしい1日になろうとは想像もしていませんでした。当時の阪神高速は、今ほど交通量はなく、また、日曜日でもあったため、覆面パトカーデーであったのです。ランプを入ってしばらくすると、赤い回転灯がバックミラーに写り、まもなくサイレンと共に悪魔の声が聞こえてきました。「ゆっくり左に寄って停車してください!」言うに及ばずの事態でありました。それだけで済めばまだ救いようがあったのですが、夕方前に新御堂筋で再びの悪夢が・・・1日に2回の速度超過違反は、骨の髄まで染みわたったのでありました。車との楽しいエピソード、まだまだあります。車好きの50年史、またの機会にお話をしたいと思います。