年: 2023年

未来予想図Ⅲ

2023.12.20

 私たちは、自分の人生を考えることができるのは幾つぐらいからでしょうか。この世に生を受けて、少しずつ自分の判断力というものが備わっていくのですが、最初は、何もわかりません。いや、赤ちゃんが泣くのは、もうすでにその時点で何かを判断できるから泣くのでしょうか。だとすれば、この時点で天性の判断力が備わっていることになります。いわゆる感情というものになるのでしょうか。そう、少しずつ、泣く、笑う、怒るという感情が芽生えていきます。そして、歩き始めるころから親の言葉を理解するようになり、最初の判断力が現れてきます。好き、嫌い、する、しない、食べる、食べないなど、先ずは二者択一からスタートです。判りやすいですね。親としてもどちらかを補完すれば素直に言うことを聞いてくれるわけです。人参が嫌いと分かれば、その味を何とかごまかして食べるように工夫するわけです。味覚というものは、きっとこれは、生まれた時から備わっているのでしょうから、嫌いな味を消してしまえばよいのです。赤ちゃんでも酸っぱいものを口にすると顔をクチャっとしますし、ワサビなどはきっと吐き出すに違いありません。ダメなものはダメであるわけで、イチゴやマンゴーなどは、きっと抵抗なく口に運ぶのでしょう。そして、そこから少し成長していくと、二択が三択になります。好き、嫌い、どちらでもない、という曖昧表現を身に付けるのです。どっちでもいいとか。この表現が厄介なのです。どちらでもいい、この、判断を人にゆだねるような表現が、のちのち災いをもたらすのです。この表現を基に何かを決定したのちに良かれと思ったことが、実は正反対であることが出現してしまうのです。怖いですねえ。さらに、そこから成長していくと今度は、四択以上の難しさが加わってきます。例えば、好き、嫌い、どちらでもない、ある意味嫌いなどと、意図を現わす判断材料が多くなるため、その回答が多岐にわたっていくのです。こうなると、お互いに曖昧表現の応酬となります。まあまあ、ちょっとぐらい、もう少し、ぼちぼち、など決定的な意思が見えない表現が多用されるのです。そして、人生の年輪を重ねるごとに、意思表示の手段が多様化して行くのです。なぜなら、意志表明には、論理的な裏付けが必要になってくるからです。こういう理由でこうなるからこうしたい、とか、こういう状況だからこの選択が最良である、とか、こうするとこの結果になるからこれで良い、などという多面的な表現で相互の意思の疎通を図るのです。普段の会話で意思の疎通を図れないときに、言葉足らずと表現しますが、まさに、言葉が足りないとあらぬ誤解を招いたり、全く理解できない事態を引き起こしてしまうのです。このように考えると、私たちにとって大切なことは、正しい言葉で自分の思いを正しく伝えることが一番ではないでしょうか。最初に問うた自分の人生を考える時期というのは、この言葉による、会話による表現が、生活上の経験と共に、自分自身でできるようになる時が来た時ではないでしょうか。外国の人々と言葉が通じなくても気持ちは伝えることができるといいますが、やはり言葉以上の成果は生まれないと思います。人間は、やはり言葉を通じて自分を表現したり、考えを人に伝えることが最大の意思表示だと思います。人生を考えるということは、自分の意思表示が伝わる時かもしれません。将来、何がしたいのか、何をする時が楽しいのか、どんな勉強がしたいのか、どんなスポーツが楽しいのか、何が一番自分をリラックスさせてくれるのか、そんなことを自分自身で考えることができれば、次の人生の目標が立てられるのではないでしょうか。それは自分の人生のどのタイミングなのか。それは、誰にとっても今なのです。年齢は関係ありません。今からの人生設計は、今すぐ、立てることが出きるのです。来年は辰年であります。登り龍の如く、天に向かって邁進していきたいものです。自分自身の新たな設計図と共に。