今そこにある希望

2025.04.20

「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山際少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」この景色を想像してみてください。なんとも優雅にのんびりとした情景ではありませんか。山紫水明、風光明媚、様々な表現がありますが、言葉によって春を感じる表現は、日本語ならではのものではないでしょうか。もちろん、中国からの影響は多大だと思いますが、大陸文化ではない島国日本の人々が、春の訪れに言い表すその感性豊かな言葉は、冬の長い眠りから覚めるにふさわしい表現ではないでしょうか。日増しに暖かくなり、梅から桜に引き継がれる満開の花が、心も気持ちも言葉通りの華やかさに移っていきます。山では、まだ寒いころからウグイスの雛が鳴く練習をはじめ、ケキョケキョの未完成な発声から、ホーホケキョとうまく鳴けるようになっていきます。人間社会も入学式や入社式がピークを迎え、フレッシュな笑顔がはじけるのであります。昔は、この時期には新歓コンパなどのうたい文句で、大いなる呑み会が大々的に開催されたのであります。そして、新人たちは一気飲みや一発芸などを半ば強制され、嬉しさの反面、絶大なる苦痛と共に、新たな環境をスタートさせたのでありました。今では、パワハラ、モラハラの代名詞となり、絶滅危惧種と化し、みんなが良い子になっている現代です。いや、そもそも良い子悪い子ではなく、良識をわきまえた人々が、多くなったということなのです。しかしながら、一般常識を知りつつも、イレギュラーな場面を創出したい好奇心旺盛な人々も、今も絶滅せずに存在しています。日常生活の中で正しいことだけを、或いは、安全な環境だけを持ち合わせて、生活をできている人は、どのくらいいるでしょうか。思うに、実際そういう人々は皆無なのではないでしょうか。現代社会において、清濁併せ呑む、という環境が実際の社会だと思います。良いことも悪いことも日常的に起こり、嬉しいことも悲しいことも同じくらい自分の周りで出てきているのです。その内容も、交通事故、病気、詐欺、経済変化、周囲の不幸など、枚挙にいとまがありません。年齢を重ねるほどそのボリュームは、どんどんと大きくなっていくのです。そんな環境で赤ちゃんが生まれ、物心がつくと行動の良し悪しを判断できるようになり、歳を重ねるごとに好奇心は旺盛となり、欲も出て、行動規範を逸脱する事態も生じていくのです。この過程をだれが見守るのでしょうか。先ずは、親です。正しいこと、悪いことを判断できる親が望まれます。そして、良いこと悪いことを多く経験してきたほうが良いのではないでしょうか。なぜなら多くを知れば知るほど判断材料の手持ちが豊富だからです。そういう人たちは、昭和以前の時代は、長老と呼ばれていました。年齢を重ねて多くの知識を持ち合わせて、分からない生活上の問題にも例を示して答えてくれるのであります。家族でいうとおじいちゃん、おばあちゃんでしょうか。そして、親の次は、教育制度の中の教師です。親世代が生計のために働いている期間に勉強を教えて、世の中のモラル、ルールも教えてくれなければなりません。いわゆる先生です。先生と言えばお医者さんも先生です。習い事の先生もいます。政治家も先生であります。先生という呼び方は便利で、半ば、多少のイレギュラーな経緯の中でも、耳心地の良い呼び方ですから、対話してもらいやすくなるわけです。それがために勘違いをする人たちも多く存在します。だから、本当は、誰々さんと呼ぶほうが誤解を招く確率は、はるかに減少する気がします。そして、何よりも、誰よりも信頼できるのは、自分自身です。これらの人たちに学び、自分自身で咀嚼して最高の自分を身に付けることが大事なのであります。社会的に自分のポジションを作るのは自分自身なのです。この時に、自己満足をしてはいけません。客観的に自分を評価できるのは周りの人々です。自分自身でしっかり学んで、自分のポジションが知りたいときは、自分を取り巻く人たちに感想を聞けばよいと思います。忘れないようにしてくださいね。自分で自分を評価するのは、主観なのですよ。別名、自己満足。