変遷する文化の果てに

2022.11.20

 お隣の韓国でハロウィーンにまつわる痛ましい事故が起きました。多くの人が通行する梨泰院で、群衆雪崩という現象が発生して、通行を妨げられ、行き場を失った人たちが四方から圧迫された状態で圧死したとのことです。日本でも10年ほど前に、兵庫県明石市での花火大会の見物客が、歩道橋の上でこの群衆雪崩によって11名の死者を出したのです。今回もニュースによりますと、極端に過度の密集が起こり、身動きできないまま圧迫により多くの人々が命を落としたとのことです。満員電車の3倍ぐらいの密集であったとのことで、逃げようが無かった模様です。ハロウィーンという、お祭り騒ぎで楽しいはずの行動が、多数の死者を出すという最悪で悲惨な夜となってしまいました。そもそも、みんなが繰り出すハロウィーンとは何でしょうか。日本でもコロナ禍以外の年は、東京の渋谷のように、多くの若者を中心とした人出が繰り出すのです。ハロウィーンは、もともと古代アイルランドに住んでいたケルト人のお祭りが起源ということです。私たちは、キリスト教のお祭りだと考えがちですが、キリスト教には関りが無く、むしろ異教徒の祭典であるようなのです。11月1日が万聖節にあたり、その前夜は、いわばある意味、仮装行列的なお祭りイベントになっています。そのような欧米文化に習い、韓国でも日本でも、もうすでに、クリスマスのように年中行事になっており、若者たちを中心にその前夜祭として行われる大規模な仮装イベントとして周知されています。お祭りとは本来、神様や仏様をお祀りして敬う行事ではないのでしょうか。私たちの初詣でのように、年の初めのお参りもそうですが、詣でるということ以外、その行事に仮装して行列するという発想も風習もありません。そう考えると、仮装するというのはやはり欧米の風習なのでしょうか。日本での仮装とは、「欽ちゃんの仮装大賞」を思い浮かべるぐらいなのですが。日本や韓国では、ハロウィーンはもはや宗教行事ではなく、クリスマスのように、エンタメイベントとして定着しているように思います。若者たちにとって仮装をして繰り出すというのは、ある意味の別人格の自分を見てほしいということなのでしょうか。或いは、仮装していることによって本来の自分を閉じ込めて、一種の成りすましのようなものなのでしょうか。それは夢であるのかもしれません。或いは、憧れなのかもしれません。一人で仮装するのは恥ずかしいかもしれないですが、友人たちと一緒にやればその羞恥心も霧散するのかもしれません。まさにお祭り騒ぎができるのです。現代社会はSNSでのコミュニケーションが定着しています。仮装した姿をインスタグラムやフェイスブックに挙げて情報を提供するのです。いや、情報提供というよりも自己顕示を現わすのかもしれません。私も友人たちからフェイスブックで様々な情報提供をしていただくのですが、殆どの内容が、あっそう、ぐらいの内容です。だから、「いいね、ポチッ」で済みます。本来、文字というのは、速いレスポンスを期待して使うツールではありません。どちらかというと、ゆっくりと内容をかみしめて相対するものであります。昔の文通ですとか、ラブレターとか。昭和ですねぇ。だから、早いやり取りをするならやはり対面しての会話か電話ではないでしょうか。いや、スピード社会だからこそのSNS活用なのでしょうか。コロナ禍で面白い現象がありました。そう、リモート呑み会です。お互いに画面に向かって自分で用意した酒を呑みながら話をする、アレです。これをやった皆さんは楽しかったですか?私、理解不能です。車座になって、食べ物やお酒の香りを身近に感じてこその呑み会ではないのでしょうか。新しい文明の活用も大事なのではありますが、肌身に感じる感性はもっと大事なのではないでしょうか。ハロウィーンも、そもそもの意義から随分と変化して現在に至っている気がします。亡くなられた人々に哀悼の意を表します。 合掌