思考の分水嶺

2022.03.20

 コロナ禍で苦悶する環境に、更に追い打ちをかけるようなロシアによるウクライナへの侵攻、どうにも怒りの矛先を持って行きようがない状況です。EU、NATO、ロシア、ウクライナ、米国、中国、その他の国が、果たしてそれぞれ一体どのように絡まっているのでしょうか。武力で侵略したロシアのプーチンが、独断で最悪なシナリオを強行しているのは、火を見るよりも明らかです。平和な日常を突然暗転させた現状をこの人間はどのような神経で受け止めているのでしょうか。ロシア国自体の中でも正しく導ける人間はいなかったのでしょうか。常識的に考えて議論を尽くさず武力で侵略させるような手口は、民主社会においては、独裁者以外の何物でもありません。プーチン本人に人間としての欠落があるのは明らかですが、その周辺の人間たちにも大いにその責任は存在するのです。裸の王様を見て見ぬふりをする人間が存在するから、独裁者は生まれるのです。民主主義国家でも独善で強行する人物も存在します。前任の米国大統領もそうでした。しかし、その人物でさえも議論は重ね、短絡的に暴挙に走ることは、自制出来ていたように感じます。

いや、暴挙に走ってもそれを言論で抑えることができていたのです。それは、やはり民主主義という仕組みがある故に、妥協点を見いだせたのではないでしょうか。

今年に入ってから北京オリンピックのドーピング問題や高梨選手のジャンプスーツ違反の判定、スノーボードの平野歩夢選手の採点問題、石油の高騰をはじめとした諸物価の値上がりなど、コロナの憂鬱と共に、心穏やかな日々は訪れていません。国内政治も首相が代わってから、何の好転もなく、ただ官僚のしつらえた文書を読むだけの為政に、何の喜びも感動も生じません。与野党の均衡が保てない政府の現状は、独裁とは言いませんが、独善に見えるは、私だけではないと思います。メリハリのない政治にまだしばらく付き合わざるを得ないのでしょうか。 この度の無差別な急襲のウクライナ侵攻で、ひとつ感じることがあります。それは、湾岸戦争の時もそうでしたが、爆撃の映像や爆撃後の状況がリアルタイムで流れていることです。それに、湾岸戦争時にはあまりなかったスマホによるリアルタイムな映像が流れていることです。誰しも悲惨な光景は見たくないと思うのですが、ミサイルや砲弾が着弾した様子が映し出されています。こんな映像を見た子供たちは、果たして正しく現実を判断できるのでしょうか。さすがに、死者の映像は自重しているようですが、実際には多くの死傷者が出ており、悲惨極まりない状況なのです。私が心配するのは、ゲームの映像と、これらの現実の映像をしっかり区別できるのかどうかということです。コンピュータの進化のおかげで人間は、最近の10年前と比べても飛躍的にその進化を享受することができています。戦場の様子だけではなく、例えば、犯罪者の足取りをニュースの防犯カメラ映像で追跡することも可能です。ワイドショーやニュース番組で流してくれるからです。住居侵入の窃盗犯も防犯カメラ映像をスマホやテレビで見ることもできるのです。また、煽り運転のドライブレコーダーの映像や、車の事故映像もニュース番組の制作者は大好きなようです。これらの映像は、好奇心を生み、想像を現実にしているのです。果たして、それは必然なのでしょうか。知るべきことと、知らないことの分岐点は、存在しなくても良いのでしょうか。必要以上に総てを知ってしまえば想像力が衰えてしまうということにはならないのでしょうか。本当に大切なことは、本などを読み、その文字に現れることを自分の想像力で描くことが大切なのではないでしょうか。古来、人々は、書き物を読んでその世界を自分なりに想像を巡らせたのです。現代で全てを想像するには及びませんが、自分だけの創造の世界を持つのも一興ではないでしょうか。