一隅を照らす

2021.07.20

コロナの影響でオリンピック開催が揺れています。開催されるかどうか、観客は観戦できるのかどうか、みんな疑心暗鬼であります。もうすでに1年も焦らされ、1年前の高揚感もとっくに薄れて、果たして実施されるのか、いや、実施できるのかどうかのモヤモヤでしかありません。各アスリートはどのようにモチベーションを維持しているのでしょうか。わたし的には1年以上もたった今、体力は別として、もう気力が薄れているのではないかと心配です。どんなスポーツ選手でも、戦いのときに合わせてコンディションを作り上げるのです。そのコンディション作りが何度も何度も延期されて、果たして今この時期にピークに持っていけるのでしょうか。野球の侍ジャパンの選出も怪我の影響やコンディション不良のせいで大分メンバーが変わりました。そらそうです。1年も経てば同じように活動できるとは限りません。当然ですが、1年もかけて調整するなんてありえないのです。昨年に行われる予定で大部分の選手たちは細心の調整を行っていたはずです。そもそもオリンピック出場には4年のスパンを経て出場するわけです。1年が経過して、そう簡単に気力体力を維持できているとは考えにくいのです。各分野のスポーツは、世界大会がそれぞれに行われます。だから、1年毎のコンディション調整は、大抵できていると思います。しかし、オリンピックは、総ての競技を勝ち抜いて、その競技者が4年に一度、一同に会するのがオリンピックなのです。そういう意味でもオリンピックは祭典なのです。オリンピックは、商業化されすぎたといわれています。営利企業の思惑でオリンピックが利用されていると思わなくもありません。オリンピックをコマーシャルの各フレーズに出して、自社のアピールをしているのは見ての通りです。オリンピックのオフィシャルパートナーだと仰々しく誇示している大手企業も満載です。まさに商業主義が全面に出ているのです。思い起こすと、1964年の東京オリンピックの時も新幹線ができたり、高速道路ができたりで、公共事業者もお祭り騒ぎでした。それぞれが公に潤ったわけですから。でも、開催までの世論は、概ね国民は無関心であったということです。その当時小学5年生の私たちには、おとなが無関心であるなどとは気付きもしませんでした。それよりも次々と生まれるスポーツの英雄に心躍らせていたのです。聖火ランナーは、学校を挙げて日の丸の紙の旗を握りしめ、沿道で大声援をしたものです。また、オリンピックの後には、市川崑総監督の監修映画を全校生徒で観ました。開会式に赤のブレザーに白のスラックス、スカートの日本大選手団が整然と行進する姿は今も目に焼き付いています。マラソンの円谷幸吉、バレーボールの東洋の魔女、重量挙げの三宅兄弟など、それまであまり知らなかった競技、選手が身近になったのです。もちろん、マラソンのアベベ、水泳のドン・ショランダー、柔道のヘーシンクなど、金メダリストの外国選手もその時に知ったわけです。だから、子供たちには大きな夢を与えてくれたのです。そんな夢を今回の2020東京オリンピックでも与えてほしいと思うのです。当時と違って今の日本には、世界に通用するアスリートが沢山いるのです。商業主義のオリンピックではありますが、競技に全力を尽くす選手たちは、英雄なのです。1年間遅れてしまいましたが、純粋に4年に一度の祭典として、オリンピックを楽しもうではありませんか。私の注目は、競泳、アーティスチックスイミング、卓球、柔道、レスリング、体操でしょうか。日本選手がメダル獲得した際には、みんなでウルウルしようではありませんか。そして、縁の下で開催を必死に支えた人々に大いなる感謝を込めて。